☆加藤のコラム『【第2弾】被災地からのレポート2』

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  宮城県七ヶ浜町の菖蒲田浜に、4月10日(日)昼ころに着きました。菖蒲田浜の今回のビーチクリーンについては、参加者の駐車スペースがなく、自衛隊の活動に支障をきたすため、急きょ町外からの応援を断った経緯があります。それでも、ローカルサーファーの他に、茨城県から小野嘉夫プロらが駆けつけ、菖蒲田浜の隣の小豆浜に打ち上がった、かなりの量の材木などのガレキを皆で片付けた結果、ビーチは大変きれいになりました。

きれいになった小豆浜
きれいになった小豆浜
 

  また、我々とは入れ違いでしたが、千葉北からは伊藤勝則プロらも来ていたそうです。大きな余震のリスクを承知の上で、仲間を励ますために全国から駆け付けたサーファーの強い絆を、改めて誇りに思います。

  菖蒲田浜の目の前で経営されていた星さんのサーフショップ「マティーズ」は、残念ながら大津波に流され、土台を残して跡形もなく流されていました。

サーフショップ「マティーズ」に残るのは看板だけ
サーフショップ「マティーズ」に残るのは看板だけ
星さん撮影

  また、かつて波伝説の「全国波乗り日記」や社員旅行などの際に泊まらせて頂いたペンションも、すべてが流されてしまっていました。何もかも破壊し、思い出が詰まった家々を一瞬で飲み込み、流出させてしまう大津波の凄まじいパワーに、改めて愕然(がくぜん)とします。人間が作ったコンクリート構築物では、大自然の脅威の前には、何も防げない悔しさ(くやしさ)、むなしさ、そして儚(はかな)さを感じました。ちなみに今気がつきましたが、儚さと云う漢字は、人に夢と書くのですね……でも人間には夢があるからこそ前を向いていけるので、儚さと言う言葉は、できれば使いたくないものです。

  次に我々は、さらに北上して宮城県本吉町に向かいました。本来ならば、三陸海岸の景勝地が続く、風光明媚(ふうこうめいび)な日本を代表する観光地なのですが、志津川町黒崎、本吉町泉沢、いずれの海岸線の街並みも、大津波によって壊滅的な姿になっていました。リアス式海岸の一番奥にたたずむ街は、大津波のパワーが最も集中してしまう、防災上リスクの高い場所でもありました。

  その防災対策として、大堤防が津波から街を防ぐはずでしたが、すべてのスケールが想定外の東北太平洋岸沖地震の前には力不足でした。小泉ポイントの前にあった鈴木さんが経営するサーフショップ「かぶとむし」も、残念ながら大津波に流され、跡形も無くなっていました。

  鈴木さんは、シークレットポイントを見下ろす、クラブ員が建てた別荘を拠点にしつつ、避難所暮らしを続けていました。

  星さんはサーフショップを、鈴木さんはショップと住まいの両方を大津波に流されてしまいましたが、お二人とも未来に希望をつないで一生懸命に頑張っていました。一日も早く、皆さんがホームポイントでサーフィンできる日を、心から願わざるを得ません。



  4月11日(月)、次に我々は、先にお世話になった釜石市に向かいました。友人の佐々木君の兄で釜石市の市会議員である透さんと待ち合わせて、我々がボランティアする役目を、市の支援物資の配送責任者と打ち合わせすることができました。我々の2台の車を使って、うずたかく積まれた、イオン、ユニクロなどから届いたものすごい量の衣料品を、市内51箇所の避難所に届ける仕事が決まりました。

  各避難所は、大津波の被害をかろうじて逃れた高台の施設やリーダーなどの個人宅などです。透さんが気を利かせて、釜石市の明細地図を貸してくれましたが、きっと地図が無かったら、我々は被災地をウロウロしていたことでしょう。

大津波が超えた堤防、手前はすでにガレキが片付き更地に
大津波が超えた堤防、手前はすでにガレキが片付き更地に
 
  海沿いの街は壊滅的ですが、近所とのコミュニティーがとても強い地域なので、避難所の皆さんは比較的明るく振る舞い、ある奥さんは、「笑いを絶やさないようにしないと生きていけないよ!」とおっしゃっていました。
 

  たったいま、釜石市の津波でグチャグチャになった商店街を走行中ですが、大地震が発生した午後2時46分となって一斉にサイレンが鳴り、市民や活動中の自衛隊もボランティアも、犠牲者に黙祷を捧げています。我々も、運転手を除いて全員が黙祷しました。そして、カーステレオのFM岩手からは、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」が流れてきました。この曲は今までに何百回と聞いてきた曲ですが、きっと忘れられない思い出になりそうです。つづく。

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