第27回気仙沼市長杯本吉町サーフィン大会(震災復興記念)報告

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 大津波による甚大な被害に加え、石油タンクから漏れ出した油が引火して、沿岸部の多くを焼失させてしまった宮城県気仙沼市。その気仙沼市の南部に位置する本吉町で、東北の被災地では震災後初のサーフィン大会が開催されました。浜や岸に流れ着いた流木やガレキの撤去を積極的に展開した地元サーファーらの努力が地域に認められ、東北のサーフィン界・被災サーファーにとっては本当に久しぶりの朗報でした。波伝説として特別なお手伝いができた訳ではありませんが、私を含めた4人で1泊2日の強行軍でしたが、ハイエース波伝説号を北に走らせて大会に駆け付けたレポートをお届けします。

 10月2日(日)大会当日は、仙台サーフユニオンから、ジャップスの熊谷素子さん航(わたる)君親子、菖蒲田浜マティーズの星さんとオーストリッチの菊田さん、荒浜リアルサーフの残間さん(表彰式に駆け付けられました)らをはじめ、宮城県内はもとより、岩手、福島などの東北の各県から駆けつけたサーファーが一堂に集まり、久しぶりの再会を喜ぶ姿がそこかしこで見られました。サーファー同士の“強い絆”と、人情に厚い東北の人ならではの強い結びつきを私たちは肌で感じました。

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震災復興記念
「第27回気仙沼市本吉町サーフィン大会」
開会式


 被災した東北の沿岸部と同様に、大会会場となった登米沢海岸も、大地震の影響による地盤沈下が進み、弱いうねりは入るものの全く割れず、仕方なく歴史のある第27回気仙沼市長杯本吉町サーフィン大会(震災復興記念コンテスト)はパドリングレースとなりました。

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盛り上がったパドリングレース


 大会開始前には、犠牲者に対して黙とうをささげて、花束が手向けられました。

 その後は、NSAの大会MCでも有名な菊田さんが、軽妙なアナウンスとともに心和ませる愉快なジョークを織り混ぜ、パドリングレースを大いに盛り上げてくださいました。被災者であるサーファーの皆さんが、海の前で腹を抱えて笑うのは、震災以来初めての様子で、笑いの中にもうれし涙が隠れたようなとても温かい“気”が流れていた素敵な光景でした。また、勝ち負けよりも、被災者全員のそれまでの苦労と努力、そして心が折れそうになるのをお互いに支えあってきた“絆”を確認しているかのようでした。そんな中、ショートボードクラスで優勝した熊谷航君は、高校生でありながらもダントツで優勝し、高い身体能力を彷彿させただけでなく、ジャップスを経営されている熊谷徹さん素子さん譲りのスレンダーで、ダルビッシュか速水もこみち君に似たイケメンなので、今後NSAでも注目の選手になりそうです。

 表彰式では、本吉町の区長さんをはじめ、行政関係者の来賓の出席を頂きましたが、街の復興が最優先でありながらも、サーファーがビーチに打ちあがった大量の流木やガレキを、チェンソーなど機械や重機を使いながらも、少しずつ粘り強く撤去を続けた努力が高く評価され、この日の震災復興サーフィン大会につながったことが報告されました。地元のサーフショップ『かぶとむし』を営む鈴木さんご夫婦は、実は本吉町中島にあった旧サーフショップと自宅を大津波で失い、避難所生活から、ようやく仮設のサーフショップをガケ下ポイント近くに建設したばかりです。まだ、水道は引けていませんが、広い駐車場と美味しくてリーズナブルなランチが食べられるポイント近くのサーフショップは、今後多くのサーファーに利用されることでしょう。

 表彰式での本吉区長さんの挨拶の中で、以下のようのお言葉を頂きました。「サーフィン大会を実施したい!と言われた時に、ここでも大津波の被害で亡くなっている方がいるため、二言返事で、はい、と言うことはできませんでした。しかしながら、サーファーらの懸命な海岸清掃活動や海底調査に心を打たれ、正直言って“負けました”。そのようなサーファーの多大な努力があって、私たちはサーフィン大会の開催を許可したのです。これからも毎年大会を実施していただいて、わたしも応援していきたいと思います」と……。その言葉を聞いて会場は静まり返り、サーファー全員の心がとても熱くなった瞬間でした。鈴木さんご夫婦はもちろんですが、多くのサーファーの汗と涙と努力の結晶によって、東北で初めて、行政と地域からサーフィンすることが認められた登米沢海岸ポイントを、私たちはいつまでも大切にすることを心に刻まねばなりません。

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東北サーファーに
ようやく笑顔が戻った





 本吉区長さんをはじめ、地元の皆さまから、これからもサーフィンを応援していただき、またサーファーが理解されるように、ビジターサーファーは海の中のルール&マナーのみならず、食事、宿泊でも地元に経済的効果が生まれるよう配慮して欲しいと思います。

 今回サーフレジェンドから4人が駆けつけましたが、その中の1人がたまたま藤沢市辻堂にあるサーファー御用達のマッサージ店『つじロコ』さんで治療したときに、本吉町に行くことを話したところ、院長からレジカウンターに置いていた震災復興募金を箱ごと、被災地初のサーフィン大会を許可して下さった本吉町への支援金として渡されたのです。募金額を確認するために箱を開けてびっくりしたことは、中に1万円札や五千円札が入っていたことです。つじロコさんに通院されているお客様の誰かが入れて下さったとは思いますが、その志に深く感謝しました。その募金箱は、大会の表彰式で、本吉区長さんにお渡しすることができました。つじロコさん、募金をいただいた皆さんに、この場をお借りして心からお礼申し上げます。

 町が用意してくださった仮設トイレは、今年11月にいったん撤去される見込みです。本格的なトイレ建設までには相当時間がかかるとは思いますが、いずれ町が設置してくださるまで、私たちも引き続き物心両面で応援しなければならないと強く思いました。

 最後に、わずかな時間でしたが、仙台市や志津川などの被災地の最新の様子をお伝えします。

 皆さまご存じのとおり、東北最大の都市であり政令指定都市でもある仙台市は、被災後に訪れた時とは見違えるように復興が進もうとしています(私たちが通った場所のみですが...)。田んぼに流れていた車や漁船、そしてガレキはほとんどが取り除かれ、津波の被害で休業を余儀なくされていた大手スーパーや量販店は、大企業の資本と全国からの応援体制により、殆どが再開していました。また、新聞報道で知りましたが、仙台新港近くにあって大きな被害を被ったビール工場でさえ、再整備を終えて、新しいホップの仕込みを市長らが行ったそうです。しかし、気仙沼市をはじめ、特に人口が10万人以下の自治体では、ここも私たちが通った沿岸エリアに限りますが、ガレキや車が多少寄せ集められただけで、感覚的には被災直後とそれほど変わっていない様子に、私たちはがく然としたのです。すでに震災から7ケ月が経とうとしているのに、更地にもなっていない土地が広がっている被災地を見て、報道では決して知ることのできない、現地に足を踏み入れて初めて知る現実に、湘南で平和な暮らしをしている私たちの非力さを痛感しました。大変失礼な捉え方ですが、第一次産業と観光などに支えられた人口の少ない被災地の自治体では、復興に専念できる職員や予算は限られます。一方の仙台市では、政令指定都市に認められている事業所税をはじめとする財源や、進出している大企業からの法人税や固定資産税が、市の財政を支えています。被災地において、行政単位で差が生まれてはならないはずですが、現実的には大変現実のようです。阪神淡路大震災の際に災害ボランティアを経験したときに、神戸の美しい街の再建には、まだ相当な年月がかかりそうと現地で感じましたが、貝原兵庫県知事らの強いリーダーシップによって、その後の復興が一気に進んだのに比べて、今回の東日本大震災においては、復興が一気に進む自治体と、まだ当分は時間がかかりそうな自治体とが見られることを残念に思いました。

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被災した志津川町沿岸部の現状と波伝説号

 被災地の至る所で、ガレキの撤去や思い出の品物を探すボランティアの姿を見ましたが、被災直後は至る所で見かけた全国から派遣された自衛隊や消防の車両や隊員は姿を消し、今は地元の消防や警察の姿を時おり見かける程度です。1000年に一度と言われる東日本大震災において、被災した沿岸部の土地を整地するまでは、自治体の復興費用が掛からず、また活動に新たな財源が不必要な自衛隊を活用できないのでしょうか?すでに学校が再開され、高台に残った小中学校に通う生徒らが、ガレキとなった被災した土地を仲間と歩く姿を見て、とても悲しく思い、3.11後の自衛隊の活動に感動しましたが、ここはもうひと踏ん張りできないのか、祈るような気持ちで頼みたくなった次第です。

 本吉町のサーフィンの再開は奇跡的でしたが、その次には、ガレキとコンテナの撤去が完了してビーチがきれいになり、水質検査の結果も良かった宮城県七ヶ浜町の菖蒲田浜あたりが、マティーズの星さんを中心にサーフィン再開に向けて努力されています。しかし、まだまだ多くのサーフポイントが、被災した街の復興が最優先されて、サーフィンどころではなかったり、下水処理場の復興・復旧の見込みが立たず、水質的に問題があったり、さらには行方不明者の捜索が続いている場所など、まだ海に入ることさえ厳しい状況です。

 東日本大震災後、東北初の今サーフィン大会の成功が、一歩一歩被災地のサーフィンの復興につながってくれればと、心から祈るばかりです。(了)

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