道路上には、倒壊した建物の木を燃やして暖をとる被災者らが、極度の恐怖感を経験し、今後どうしたら良いのか分からない不安のためか、呆然と火を見つめていました。このまま前進して良いものか迷いつつも、何とか神戸市役所に着いたのは深夜でした。
その前年に、たまたま仕事で同市役所を訪れていましたが、その時に訪れたと思われる位の中層階が、地震でペシャっとつぶれているのを間近に見て、さらに緊張感が高まりました。市役所の一階に入ると同時に、たまたま避難所からオフロードバイクで連絡に来ていたボランティアに導かれたのが県立兵庫高校でした。
私たちの仕事は、当初はライフセーバーらしく、倒壊しかけた家の中で足を骨折して動けないおじいさんを、自分らの車で病院に搬送などもしましたが、その後は避難所の運営基盤を作ることでした。当初から仕事を休むのは一週間としていたので、その間に被災者自身が少しでも自主運営できる体制づくりを、学校や市役所の職員と協力して作りました。
しかし、体育館倉庫の中には十分すぎる毛布や防寒着が届いていて、早く高齢者から配るべきと主張する私と、全員に公平な配布ができないと拒む市役所職員と意見が食い違うことがありました。職員も被災者であり、こんな災害は想定外で動揺して心中は穏やかではないはず、避難所の運営は皆の気持ちをまとめることが最優先と悟り、それ以上神経を逆立てぬようにと自分の気持ちを抑えた記憶があります。ただし、あまりにも寒そうな高齢者には、風邪を引いて肺炎にでもなったら大変なので、こっそりと渡しましたが……。

震災後の避難所は被災者で溢れる(新潟県小千谷体育館にて)

新潟県中越地震で炊き出しをする地元ライフセーバー