『1.17と初夢 Vol.2』

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ライフセービングで使っていた青色パトライトを車の上部に点灯させて慎重に進みましたが、神戸の中心部に近づくに従って多くのビルが倒壊して道路を塞ぎ、一階が車庫の建物は壁がなくて強度不足のためかほとんどがつぶれていました。

道路上には、倒壊した建物の木を燃やして暖をとる被災者らが、極度の恐怖感を経験し、今後どうしたら良いのか分からない不安のためか、呆然と火を見つめていました。このまま前進して良いものか迷いつつも、何とか神戸市役所に着いたのは深夜でした。

その前年に、たまたま仕事で同市役所を訪れていましたが、その時に訪れたと思われる位の中層階が、地震でペシャっとつぶれているのを間近に見て、さらに緊張感が高まりました。市役所の一階に入ると同時に、たまたま避難所からオフロードバイクで連絡に来ていたボランティアに導かれたのが県立兵庫高校でした。

私たちの仕事は、当初はライフセーバーらしく、倒壊しかけた家の中で足を骨折して動けないおじいさんを、自分らの車で病院に搬送などもしましたが、その後は避難所の運営基盤を作ることでした。当初から仕事を休むのは一週間としていたので、その間に被災者自身が少しでも自主運営できる体制づくりを、学校や市役所の職員と協力して作りました。

しかし、体育館倉庫の中には十分すぎる毛布や防寒着が届いていて、早く高齢者から配るべきと主張する私と、全員に公平な配布ができないと拒む市役所職員と意見が食い違うことがありました。職員も被災者であり、こんな災害は想定外で動揺して心中は穏やかではないはず、避難所の運営は皆の気持ちをまとめることが最優先と悟り、それ以上神経を逆立てぬようにと自分の気持ちを抑えた記憶があります。ただし、あまりにも寒そうな高齢者には、風邪を引いて肺炎にでもなったら大変なので、こっそりと渡しましたが……。

震災後の避難所は被災者で溢れる(新潟県小千谷体育館にて)
震災後の避難所は被災者で溢れる(新潟県小千谷体育館にて)
 
被災者に、前日に調理されたお弁当を配るに際しても(物流が麻痺していたため)、毎回寒風吹きすさぶ校庭に30分以上も並ばせていました。しかし、下町の市民が多かったせいでしょうか、誰も一切文句を言わずに、逆に円滑な運営ができないでいる我々に感謝するので、本当に頭が下がりました。 数日後には、自衛隊が校庭にテントで調理場を作り、少し温かいご飯の弁当を配ってくれました。白米の上に、梅干し・昆布・小魚の佃煮がほんの少しのっているだけの野戦食!? でしたが、冷たくない弁当を食べたのは久しぶりで、とても感謝したのを覚えています。
 
新潟県中越地震で炊き出しをする地元ライフセーバー
新潟県中越地震で炊き出しをする地元ライフセーバー
太平洋プレートが沈み込む地震の巣の上に暮らす私たちは、県・市が姉妹提携を張り巡らせ、大震災の発生時には消防・警察の緊急応援体制のみならず、避難所運営の教育を受けた市役所職員の応援もできる体制を築くようにすべきです。応援に駆け付けた市役所の職員の経験は、必ずその自治体での防災対策に生きるはずです。つづく。

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