さる3月10日(日)、福島県南相馬市北泉海岸の慰霊祭に、会社を代表して弊社の武市晴樹、上條将美とともに参列してきました。
3.11直後に、ライフセービングの知人の依頼を受けて、南相馬市の大町病院の入院患者の緊急搬送を、自衛隊と全国から駆け付けたライフセーバーとともにお手伝いさせて頂きました。
その際に、相馬中村神社には連泊させて頂き、食事もお世話になり、また親切な地元のお花屋さんにはご自宅のお風呂を使わせて頂きました。いつかきちんと直接お礼を申し上げたかったので、北泉の慰霊祭の連絡が来た時にはこれでやっとお会いできると思いました。
車のナビの案内のまま東北自動車道のあるインターを降りたところ、福島原発から20km以内の立ち入り制限区域に紛れ込んでしまい、徳島県警の方に迂回路を教えていただきました。結果的に原発近くまで行ってしまいましたが、その周囲の街は2年間が経過していても住民が住んでいる様子が全く感じられない情景が続きました。
今さらながら、福島県の一部の地域以外は放射能汚染がないために、一気に復興に向けて復興工事が進んで活気さえ出てきている一方で、まったく住民が戻っていず、復興の目途さえ立っていない街を走ることはとても心が痛みました。もしもが許されない原発について、なぜ長崎、広島、そして福島と、原子力による甚大な被害を受けた日本が廃炉にすらできないのか、私は理解ができません。せめてドイツやイタリアのように、原発の是非を国民投票にかけて、国民の賛否を問うことさえしないのでしょうか? 2年前には一軒一軒に明かりが燈(とも)り、一家だんらんの生活があったことを考えると、本当に不憫(ふびん)に感じられてなりません。避難生活を余儀なくされている住民の方には、一日も早く、できる限りの補償をして欲しいと願うばかりです。
車が原発から離れるにしたがって、徐々に人が住んでいる住宅が増えてきましたが、家の周りには黒く大きな袋が積み上げられていました。家から20mの範囲は、国の費用で放射能除染のため、落ち葉や下草が刈られて黒い袋に入れられて積まれていたのです。しかし、20mより外側の田畑や山林は除染の対象外です。除染というにはあまりにも対象範囲が小さすぎるのではと感じざるを得ませんでしたが、『そんなことは分かっているけれど、除染作業により地元に多少なりとも就労の場が確保できたんだから、やらないで無収入よりはまし……』そんな切ない声が聞こえてきそうです。
除染された下草なとが入った黒い袋
当日は西高東低の気圧配置が決まって、北泉海岸は極強の西風が吹いて、砂嵐が舞うほどでした。砂や土のみならず、スギ花粉、黄砂、pm2.5、そしてほかの物質も舞っていたかもしれません。しかし、地元はもちろん、沖縄を含めた日本全国から駆け付けたサーファーやライフセーバーが集まり、一番遠いところではアメリカのカリフォルニアからわざわざ参加されたアメリカ人のサーファーもいました。その100名以上の参列者が、慰霊祭の前に北泉海岸のビーチクリーンを砂まみれになりながら行ってくださいました。
もちろん私たちも参加しましたが、サーファーやライフセーバーの連帯感、サーフポイントを大切に思うピュアな気持ちは本当に素晴らしいなと感じました。
サーフィン用のフルスーツが出てきたときには一同ドッキリ!?
ビーチクリーンのゴミを運ぶダンプには、かつて開催されたASP大会時に使われたパーテーションが再利用されていました
南相馬市長のメッセージによれば、平成30年度以降に以前よりも大きな北泉海岸に隣接した海浜公園を作り、天皇陛下をお呼びして全国植樹祭を開催し、そのあとにサーフィン大会を開催したいと宣言されていました。
慰霊祭に、日本全国、海外から集まった多くのサーファー
それに応えるかのように、ASP JAPANの近江代表、JPSAの牛越理事長、NSAの酒井理事長からは、ぜひその時には以前のように北泉のGoodWaveで、盛大に大会を開催すると発言されていたのがとても嬉しかったです。
津波にショップを流されたサンマリーンサーフの鈴木さんは、手作りのショップを、国道6号線近くにオープン!!
まだ、北泉の一部の海水調査ポイントからは放射性物質が検出されている状態なので、まだ時間は相当かかるものと思いますが、少しずつ復興に向けて進展されていくことを心から祈るばかりです。(文責 加藤道夫)